百間川(旭川放水路)
百間川は旭川右岸の城下町を水害から守るため計画された人工河川なのだが,
熊沢蕃山の「川除けの法」を,津田永忠が短期間に具現化したものであった.
中原付近で別れた旭川の数条の流れを1本の放水路にして操山の東に導いた.
操山の北麓と旭川の微高地を利用したので右岸築堤は作られなかったという.
左岸の堤防を低くして流量によっては左岸が溢れる設計になっていたらしい.
百間川とその左岸を旭川の遊水池と考えれば,百間川の流量は無限大になる.
旭川の分岐点から一の荒手,二の荒手,三の荒手が作られ土砂の勢いを減じ,
古代(弥生時代以前)から1990年頃まで,堤外では稲作が行われていた.
平常時の百間川は,三の荒手下流に巾2mほどの農業用水が流れているだけ.