カーブしたあたり
画面左手から,国道250号,両備バス車庫,旧国道,“けやき通り”(画面右の広い通り)です.
“けやき通り”は鉄道の廃線以後にできたものです.1962年当時は用地買収も進んでいません.
上掲写真ではわかりにくいけれど,現地に立つと森下駅の南西のカーブの様子がよくわかります.
私赤木幸茂は,国富(城東町,森下駅近く線路と踏切が見えるあたり)で幼児期を過ごしました.
“せんろ道”は当店の近くです.土地勘のない方々に対して時として当店スタッフがご案内します.
(画面上が南南東です)
国道(当時)の踏切
森下駅本屋の並びに鉄工所があった.踏切番を担当していたのは,そこの鉄工所の夫人であった.
美容室あたりに踏切番の小屋があり,場内信号機は踏切の西(現在の欅通りの東)にありました.
そういえば急カーブの内側に小さい沼があって,ガマの実がなっていたことなど思い出しました.
森下を出発した上り列車は,すぐ急カーブにかかり,旧国道の踏切を渡って,緩勾配を下ります.
曲線にかかったあたりが最も標高が低いようで、田の中を一直線に走って浜の県道に近づきます.
踏切に近づくと右に曲がり,踏切を渡り,勾配にかかり,築堤を上り切ったら,後楽園駅でした.
これを確認できたのは2018年7月7日のことでした.付近の排水路が溢れ海になった時です.
旭川の水位が上がったため,付近の用水路が溢れて内水を排水ポンプで旭川に排出していました.
旭川の増水の状況を観察し一安心したところで,車のサイレンが鳴る中,パソコンを入力中です.
当時の幼児・私が長じて,また国富に住むことなって,中世の旭川の流路に関心が芽生えました.
縄文時代は海であったところが岡山平野になって,人が住み,鉄道が敷かれ,汽車が走っていた.
東川原,浜,原尾島,幡多,関は水と関係のある地名,稲作にこじつけて国富などの地名にした.
思うに,約400年前の岡山城築城の時,旭川の流路を変えたことがそもそも間違いではないか.
自らの都合で権力者が自然を変えることが許されてよいのか,無力な私でさえ考えてしまいます.
自然とうまく付き合って,真の意味で科学を活かすとはどういうことか,改めて考えなければと.