和気郡備前町 1960年代
C13-51

片上C13 C12
C13-51        機関車分区

   
 C13-50       C12-201

形式 片上 C13
C13の 前身は 終戦後の一時期 南海高野線で通勤列車を牽いていたC10002,C10003とされる.
元来石原産業が海南島の鉄鉱山開発を企図して日本車輌に発注したもので1944年に6両が竣工している.
帝国の南方侵略の拠点海南島の占領政策が破綻し6両は本土内に留まった.1両は日本車輌本店に残された.
5両は終戦間際の塩浜~四日市の貨物通勤輸送に使われたが終戦により用途を失って放置されていたという.

5両のうち3両が,近畿日本鉄道(“大近鉄”)に引き取られ,高野線(汐見橋~長野)で朝夕の急行列車を,
牽いている.戦時統制に絡んで,南海電鉄は南海山手線(阪和線)を分離,関西急行(“関急”)と合併した.
統制が解かれ,C10001形の2両は,南海と近鉄の分離後に帳簿上1両づつ片上鉄道に譲渡されている.
片上鉄道譲渡に際し1Cテンダー機から1C2タンク機に変わったことは鉄道ファンには広く知られていた.

1946年5月~1946年8月の間,古い電車を流用した阪和電鉄の木造客車2両を牽いて奮闘した時代,
長野,汐見橋,急のサボが付いたC10001,C10002の姿をインターネットでも見ることができる.
タンク機改造直後のカウキャッチャーを付けた竣工写真が残っているけれど元植民地向とはとても思えない.
南海C10001形,片上C13形の特殊性,樺太鉄道20形は,昭和史を知る上で注目すべきものと思う.

戦後の機関車不足の時,岡山機関区から4110形(4145)を借り入れたとの記録が片上に残っていた.
入線試験で軌間を拡げて忽ち返却されたという.C13はそういう状況の下で誕生した蒸気機関車であった.
なお,入換用になったという1両は1959年春までは日本車輌本店にほぼ原型をとどめて留置されていた.
日車所有の1両は,戦後,神宮前~鳴海間などで走っていたことが,“白井昭の一口メモ”で報告されている.

樺太鉄道飽和式蒸機と同一基本寸法の機関車が,汽車会社で改造されて国鉄タンク機によく似た姿になった.
この機関車を片上で初めて見た時,国鉄のタンク機関車はC13まであったのか一瞬迷ったくらいであった.
形式と番号にハイフンが入って,動輪は小さく軸距離も開き,缶中心も低いからますますわからなくなった.
資材難の時期,新造と間違えそうな機関車ができたのは汽車会社に優れた感覚の設計者がいたからであろう.

運転室を拡幅,屋根嵩上げ後の時代しか私は見ていない.晩年には,除煙板が切取られ更に印象が変わった.
C11が本務機,和気~片上間の補機でC12,C13を見ている.本務機C13を見たのは少ないけれど,
ポイントを渡るときなど横揺れ,衝撃が少なくて乗務員には好評だった.C13が板台枠だったためだろう.
DD20クラスの話もあったが,DD13の導入に伴って1966年かに片上のヤードの片隅で解体された.


日本車輌の103号機関車についてはこちらをご覧ください.

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