2022年 津山市二宮
立石岐翁石碑(津山市) 八幡神社(岡山市) 首なし地蔵(津山市二宮)
立石岐翁石碑     津山市   2022/03/02
立石岐翁顕彰碑碑文(津山市)
立石岐翁碑文     津山市   2022/03/02

   立石岐先生顕彰之碑   

 先生は 弘化4年5月13日、浅口郡船穂村の 豪農 小野市太夫の 四男に
生まれ、慶応2年10月 西西条郡二宮村の大庄屋 立石正介の養子となる。
荒廃した美作地域の 農村振興に 中島 衛ら とともに 養蚕の 導入、普及に
尽力する。 明治11年 4月、作州の大・中庄屋クラスを中心とする名望家
21人で、共之社を設立、同時に二宮村に私立養蚕伝習所を設立、岐が所長
となる。また明治14年二宮蚕糸会社を設立し製糸業経営まで発展させた。
 この間、明治12年3月に 岡山県会が開かれると、岐は 県会議員に選出
されたが、共之社から 7名当選している。後に 自由民権運動は美作からと
云わしめたのは、共之社の面々の堅い結束があったからである。明治12年
5月、自由民権運動の推進組織として、立石・中島・井出らが中心となり、
「 両備作(備前・備中・美作)三国親睦会 」が結成された。 この組織に
より、「岡山県両備作三国有志人民国会開設 建言書」が作成された。 この
建言書 は 三村久吉(備前)、忍峡稜威兄(備中)、井出毛三(美作) の
3氏により 、13年 1月3日、 元老院に 提出された。 その後 国会開設
運動は、大きく 前進し、明治14年10月12日に至り、 十年後の 明治
23年を期して 国会を開設する と云う 詔勅の煥発に至る 大きな成果を
あげた。 明治22年2月 「 大日本 帝国憲法 」 が発布され、同年4月、
明治の大合併 と云われる 「市町村制」が 施行された。明治23年7月、
第1回 衆議院選挙で、岐は 第6区(美作西部)から 選出され、 続いて
第2回、4回と選ばれている。その後 岐は中央政界から 引退、明治33年
から16年間、苫田郡議会議長を務め 地域の発展に 献身的努力を行った。
特に 二宮小学校 校地の大部分の提供はその一例である。中国鉄道の開発、
国会開設など 近代化の先覚者 岐は 昭和4年4月4日 享年 八十三歳で
その生涯を閉じた。                         
 この顕彰碑は、二宮歴史文化財顕彰会実行委員会、二宮一日会、連合町内
会等の委員の永年の努力により 建立の運びとなった。今後の まちづくりの
出発点となることを期待したい。                   
          平成20年2月吉日
                   美作大学名誉学長 目瀬守男 撰



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