岡山空襲写真展 岡山市中区 201 9/06/25
岡山空襲
1945年6月29日午前2時43分からB29編隊が138機(アメリカ軍の記録)が飛来した.
警報が発令されないうちに空襲が始まり2時間の爆撃の間遂に1機の迎撃機も飛び立つことはなく,
高射砲の応戦もなく波状攻撃を受け市街地は猛火に包まれ,混乱した市民は逃げ惑うしかなかった.
約12万人が罹災1700人以上犠牲になった.米軍の空襲は終戦時まで続き主要都市が焼かれた.
(6.29岡山市民平和祭のちらしより)
岡山市浜(第一高等女学校)に据えられた高射砲は,敵機通過後,発射した,などとも噂さされた.
母と私が住む旭川左岸地区は焼夷弾の集中砲火はなく,庭に掘った壕に入り一夜を過ごし助かった.
翌朝市内を歩いた母が後に「火の中避難中に焼死した人間が道にヨオケ転がっとって歩けんかった.
戦争は絶対にしちゃいけん」母は当時のことはあまり語らなかったけれど,時々私に漏らしている.
父について書くと1941年12月8日,父は帰宅するなり「バカなことを始めた」と母に告げた.
外航船機関員だった父は彼我の関係を知っていたからやり場のない気持ちを母にぶつけたのだろう.
軍機保護法の下,海員は南方の戦況は把握できていたと思うが,父は招集に応じて横須賀から乗船.
1943年末トラック島に向かう輸送船団に乗り組んだ父は船諸とも行方不明.帰還はしていない.
当時父母が逗子市に寄留した頃に胎内に宿したのが私である.病院で私は誕生し,岡山市で育った.
周囲は内緒にしていたが,偶然から父の訃報を知った母の母乳は止まって,牛乳で育った由である.
私を殺して死のうと思ったこともあったんよ,と後に母は語った.母子ともに岡山で健康に暮らす.
母は36歳で私を生み(当時としては遅い子)私がちょうど父の年齢に達した時,82歳で没した.
(小学校の参観日に「おばあさんが来たの」と教師から言われた)
岡山空襲・水島空襲写真パネル展
岡山市中区桑野 桑野ふれあいセンター 6/25(火)~6/30(日 ) 9時~17時
(最終日は16時まで) 6・29岡山市民平和祭実行委員会主催
岡山空襲資料