首なし地蔵(津山市二宮)
立石岐翁顕彰碑 吉備路 首なし地蔵        津山市  2022/03/15

首なし地蔵(津山市二宮)
説明板          津山市  2022/03/15

立石岐翁顕彰碑 吉備路

首なし地蔵
 西側から約一・五米の地蔵「日本回国、享保十一年三月(一七二六)
供養施主新田村是休」と記してある。次に高さ約六十糎の地蔵五体(頭
部がない)が並ぶ。続いて力士墓が立つ「浜風岸右衛門墓、門弟中、文
化十二年十一月七日(一八一五)金剛力院弧年量哲信士」を刻む。東側
に高さ六十~七十糎の石碑(上部が折損)「文化十三年(一八三〇)寅
八月吉辰津山、本納大乗妙典日本大社」とある。          
 新田村は、現在の津山市新田。頭部のない五体の地蔵は、津山城松平
二代目 城主 松平浅五郎侯(幼少六才)時代の事、享保 十一年三月(一
七二六)山中一きの首謀者として、滑川口吉井川原で処刑された仲田村
池田徳右衛門、見尾の樋口弥治郎と、津山城の獄中にて死刑にされた東
茅部村七右衛門とその子喜平治、そして川崎の刑場で処刑された土居村
忠左衛門と富東谷村谷村與七郎の六名であるが、一体少ないのは、山中
の遺族が持ち帰ったものとおもわれる。              
 大和町内会において、平成八年屋根を建造、毎年地蔵祭りで懇ろに霊
を弔っている。                         
 平成八年三月、津山百景(津山市)に選定されている。      
  平成 二十一年 十月 吉日                 
             設置者     二宮歴史文化財顕彰会 


MEMO
 山中一揆(さんちゅういっき)は,18世紀に岡山県北西部で起きた農民運動.
 庶民が公権力に挑み始めた歴史の転換点,日本の夜明け,正しい意味での維新.
 旧街道に沿って、院庄駅,姫新線踏切,首なし地蔵,高野神社,立石邸と並ぶ.
 高野神社(二宮)から出雲街道を約200m西進,吉井川堤防に沿ったところ.
 穏やかではない名で呼ばれるお地蔵さんなのだが,津山百景に指定されている.

 4000人の農民が決起した山中一揆.その犠牲者(惨殺)は51名を超えた.
 捉えられた6名のリーダーのうち2名がこの付近にあった刑場で殺されたから,
 6地蔵として祭られてきた.頭部が壊されたのは後のこと.私はそう考えたい.
 明治以後の政府と大衆の野蛮,廃仏毀釈の時勢で破壊された仏像は数知れない.
 名刀も石では太刀打ち不能.石は割るか削るか,強い水の衝撃でも加工できる.
最寄駅 : 姫新線 院庄



資料
 「浄土宗摂取山念佛寺とフォルクローレ」真庭郡新庄村の摂取山念佛寺のHP.
https://www.can-chan.com/santyuu-ikki.html