
百間川河川敷から見た操山丘陵(金蔵山古墳あたり)
瀬戸内海が形成されて,吉井川,旭川、高梁川などの土砂が堆積してできたのが県南の平野部である.
縄文海進期の旭川河口は玉柏付近との説があり,中世の旭川は大きくは2つの流れがあったといわれ,
百間川が作られた所より北側に複数の流路があって操山の東西の2ヶ所で海に流れ込んでいたという.
操山南麓は近世の干拓地が拡がっているが,操山北麓は旭川の氾濫原であったところに人々が住んだ.
縄文,弥生の集落,水田,中世の遺構,橋梁の基礎杭などの遺跡群が百間川河川敷で発見されている.
中島,高島,清水など,水に関わる字名.古代から中世に拓けた土地と判る字名が残っている地域だ.
岡山城が造られて後,中世以後に城下町として発展した中心部は,政令市になる時北区と定められた.
筆者の若い頃,田園地帯が拡がっていた操山北麓,風景がつい半世紀前が昨日のことのように思える.
操山と中心にした中区は適切な命名とは言い難いが仮に平安時代まで遡るならば無意味とも言えない.
画面の左は丸山の頂,中央の頂が金蔵山古墳であろうか.沢田の集落は半分くらい山裾に隠れている.