人造湖締め切り堤防(軍事用)
天正10年(1582年)中国攻め総大将羽柴秀吉が水攻めで締め切り堤防を築いた場所とされる.
江戸期の地理学者古川古松軒が「此所二新堤築ク」と記し手書きの地図(見取り図)とも符合.
築堤の高さは最小で約3mで充分,最大でも7mといわれ,現在も確定までは至ってはいない.
明治38年(1905年)鉄道敷設の客土工事で運び出された.これに対し強く抗議した人がいた.
若き日の高田馬治である.築堤を実際に見たこの人の尽力で蛙ヶ鼻の築堤の一部が残っている.
陸軍獣医.獣医の養成と高松城水攻め歴史研究,史蹟保存に尽くした郷土史上の先覚者である.
(岡山市北区立田)
高梁川合同堰から引かれた堪井十二ヶ郷用水路は松ノ木分水で階田用水に別れ,砂川,桜川,
血吸川,足守川をサイフォンで潜って 立田蛙ヶ鼻を流れて ポンプアップして 東流している.
高松盆地の流水は中世もここを通って笹ケ瀬川に合流し瀬戸内海に流れ込んでいたであろう.
立田川は改修後,高松一宮西川(起点終点?)となる.鼓山山麓を流れて国境に流れている.
(岡山市北区立田)
僅かな標高差の微高地・原古才から稼屋あたり(遠景)
中世の 松山往来沿いの街並み.庄内幼稚園(左), 庄内小学校(中央),高松中学校(右)を遠望.
松山往来の高みを利用すれば,蛙ケ鼻の築堤だけで高松城の水攻めが可能という説が濃厚になった.
中学校,小学校は足守川の旧流路らしい.旧流路の漏れを塞げば水攻めの湛水に利用できる公算大.
秀吉の軍勢は蛙ヶ鼻から原古才に締め切り堤防,福崎,門前に堤防,門前に水取り入れ口を築いた.
(岡山市北区津寺)