ひろでんの旧本線(開通から戦時中まで)
左官町~土橋は1944年までは専用軌道(複線)で広電の本線であった.
手前の横断歩道(女の子が歩いている)と陸橋の間の道路は軌道跡である.
現在の本川小学校と広島記念病院,明教寺と本川公園の前を電車が往復し,
西国街道を横切って西に曲がって浄国寺,広島信用金庫の北を通っていた.
西国街道を横切るあたりには‘’堺町一丁目‘’(名称は疑問が残る)があった.
本川右岸,堺町一帯は問屋,倉庫,銀行が並び広島の商業の中心であった.
本川の舟運中心の時代も終わって,市街も広がり中心が本川以東に移って,
太平洋戦争が始まる頃には左官町~土橋は道が狭くて線路改良を迫られた.
戦時下に始まった江波線敷設と同時期,土橋~十日市に軌道がつながって,
左官町~土橋の専用軌道は廃止されて本線となったのは1944年である.
1945年8月の米軍航空写真では堺町付近の曲線半径は改良後のようだ.
左官町~土橋のレールは撤去されているようだが,詳細までは判別不能だ.
堺町一丁目という電停はなかったようで,電停の名称は堺町だったようだ.