高松城水攻めメモ
『中国兵乱記』は長さ約3KM(足守川取水口から蛙ヶ鼻まで)高さ約7mの堤を築いたと書く.
堤防延長3km説が,吉川英治,司馬遼太郎などによって周知され,疑問を呈する人もなかった.
古川古松軒 (1726~1807) は,現地を歩いて,羽柴秀吉側の築提は 蛙ヶ鼻から 原古才まで と,
絵図の中「此所二新堤築ク」と書き残した.高松農校土木科,林信男らの先達もこれを支持する.
足守川の水は福崎から松山往来の北を流れて,高松盆地に至り,蛙ヶ鼻の築堤で堰き止められた.
地勢として,門田,高松、原古才は,足守川の作用できた微高地と後背湿地と認められるなどと.
大崎廃寺の水田は高松城の周囲より凡そ5mは高い.中世でもここ辺りまでの冠水は考えにくい.
右端に 文英石仏,遠くに 高松稲荷の大鳥居が見える. 大鳥居の南に戦前まで水越し提があった.
故林信男(1919~2012)が残された本に『僧文英と石仏』『備中高松城の水攻の検証』がある.
類書はない.この本とカメラを携えて吉備線沿線を徘徊すると楽しい.中世の何かが見えてくる.